第1話 老人

 浅く息を吸ってドアを押し開けると、板が軋む音がして、射しこんだ陽光に塵が粉雪のように舞いあがる。一瞬見とれた彰人は、後ろから聞こえたせせら笑うような声に慌てて手で口元を押さえた。

「とても東京の大都会に住んでいたようなひとが耐えられる場所じゃありません。今ならまだ引き返せます」

 ここへ案内してきた世話役のこの男は、彰人が音をあげて逃げ出すのを楽しみにしているようだ。

 小屋のなかへ足を踏み入れると歩くたびに板張りの床がぎしぎし鳴る。

 とつぜん床が抜けそうな重たい音がした。

 振り返ると、世話役の男が背中に背負っていた荷を床に降ろし、肩をまわしているところだった。浅黒く焼けた顔に愛嬌のある笑みを浮かべていたが、徐々にそれが剥がれ落ちて値踏みするような眼差しだけが残る。

「ここがそうなんですか?」

「ええ。ここが塚原の旦那様がおっしゃっていた山小屋です。ここら一帯の山はすべて旦那様の所有地なんですよ。この山のちょうど裏側に祠があるんですが、そこへ近隣の者がお参りに来ることがありまして、そのために解放なさってる小屋なんです。もともと雨風をしのぐために建てられたものだから、とても人が住めるようなところじゃない。旦那様もなにを考えてあなたをここに寄越されたのか」

 亜熱帯を象徴するような鬱蒼としたジャングルのなか、黴臭い匂いが肺の奥まで染みつきそうな道を数時間歩いて辿りついたのがこの山小屋だった。

 中国は湖北省。幾重にも尾根が連なる広大な山脈のさらに奥、秘境といっていいほど人里から離れたこの山小屋に彰人が来ることを決めたのは、ほんのひと月前のことだ。

 ひと月前、彰人は死ぬことを考えていた。

 特になにかがあったわけではない。しいていえばなにもなかった。三十年なにもなく生きてきて、なんとなく疲れた。なんとなくというだけでは死ねないが、死んでもいいとは思っていたし、生きたいとも思っていなかった。積極的に命を絶つことまで考えなかったのは、女手ひとつで彰人を育てあげた母親のためだったかもしれない。その母も一年前に肺がんを患って死んだ。彰人は粛々と通夜を執りおこない葬式をだし四十九日の法要を終えた。一周忌はひとりですることを決め、葬式に義理で顔を出した近所の者にも報せなかった。

 その一周忌の日、母の墓前で線香の煙を眺めていると、手桶を持ったひとりの老人が歩いてきた。夏だというのに黒のスーツをきっちり着こなし頭には同色のハット、いささか前時代的な出で立ちで母の墓に花束を供える。母との関係を尋ねると、老人は彰人の父の兄を名乗った。

 彰人の父は彰人が産まれる前に亡くなっており、母は生前親戚の話をまったくしなかったから初耳だった。

 老人はこの日のためにはるばる中国からやってきたという。

 得体のしれない老人だった。そもそもどうやって母の命日を知ったのか。なにかの詐欺だろうかと警戒しつつも話し続けたのは、誰かと母について語りたかったのかもしれない。母の記憶を分かち合えるひとが、彰人のまわりにはいなかった。

 東京郊外の霊園から新宿に場所を移し、雑居ビルのこじんまりとした居酒屋で、彰人と老人は酒を呑んだ。自分の知らない父と母の話を聞いた。父と母がつきあっている最中に父が交通事故で亡くなったこと。そのとき母の腹には自分がいたこと。まわりは堕ろすよう勧めたが母は頑として譲らず、身重のまま姿をくらましたこと。

「けれどあなたのお母さんは、そのあとも私となんどか手紙をやりとりをしました。弟のことを忘れたくなかったのかもしれません。私がお腹の子を堕ろすように勧めなかったのもあって、連絡をとりやすかったんでしょう」

 その当の腹の子である彰人は「そうですか」とだけ返事をした。礼をいうのも違うだろうし、いうべき言葉が見つからなかった。

 老人はその後、中国へ渡り、母との連絡は途絶えていたが、二年ほど前に一通の手紙が送られた。ちょうど母が病院で余命宣告を受けたころだ。手紙は老人の実家へ届き、老人がそれを知ったときには消印から一年もの日がたっていた。ひとをやって調べさせて母が亡くなったことを知ったのだった。

 老人はほかにも父と母の馴れ初めなどを話したが、とても自分の知っている母のこととは思えなかったし、父についても親しみを感じたりはしなかった。同じ遺伝子がこの身に流れていてもそれだけのことだ。

「あまり嬉しそうではないですね」

 居酒屋の薄明かりの下、老人は彰人の顔をじっと見据えた。

「突然のことで実感が湧かないのかも知れません」

「あなたはなにか実感していることがあるのですか?」

 ふいをついた質問だった。

 居酒屋に入ってからもハットを被ったままの老人の顔には濃い影が落ちていて、老人特有の濁った瞳が鈍い光彩を放っている。

「気を悪くしないでください。さっきから何を聞いてもまるで他人ごとのようだったので」

「他人事とは思っていません。とくに母のことは。そういうこともあったのかと思いました。けれど、そうですね。実感というのは難しいです。なにをしてもあまり現実味を感じないたちで」

 出会ったばかりの者に話すことでもなかったが、酒の勢いもあって正直にこたえた。

 老人は両腕をテーブルの上で組むと、彰人を見つめながら遠くの虚空を眺めるような目つきをした。

「弟にもそういうところがありました」

「父にもですか?」

「普段は人懐こく明るい男だったのですが、ときおりなにかに躓いて穴に落ちるように生きている実感を失ってしまうことがありました」

「それは母と何か関係が?」

「いえ、あなたのお母さんとおつきあいをしているときは、それは生き生きとしていました。失礼ですが彰人さん、そういった女性は?」

「いません」

 これまでつきあった女は何人かいたが、だれとも長くは続かなかった。振られるのは決まって彰人の方なのに女たちは一様に自分が傷つけられたという表情で去っていった。

「僕はつまらないそうです」

「あなたがつまらないと思っているのが伝わるのでしょう」

「……ずいぶん知ったようなことをいいますね」

「私も今そう感じていたものですから」

 とたんに不愉快になった。

 こんな怪しげな老人となにを話しているのか。もう母のことは聞いたし話はすんだ。「それはすみません」と口先だけで謝って、彰人は通りがかった店員に勘定を頼んだ。

 老人は彰人から目を離さなかった。

「しばらく私の土地へ来てみませんか? あなたが弟と同じようにならないか心配です」

「おっしゃる意味がよくわからないのですが」

「あなたは健康ですね」

「はあ」

「仕事もあり安定した収入を得ている」

「それなりに」

「それでも不幸だ。弟はそういうとき決まってこういいました。生きていても死んでいても同じ――」

「僕は、自分を不幸だと思ったことはありません」

 老人はわかっているというように頷いた。

「場所は中国です。山奥ですが悪いところじゃありません。弟はそうなったとき、なんどか山に入って精気を取りもどしたように戻ってきました。しばらくのあいだ旅行にでも行くと思えばいい」

「あなたの話にも現実感がない」

 彰人は笑ったが老人はにこりともしなかった。

 それで、考えさせてくれと返した。

 考えることさえ馬鹿馬鹿しいはずの老人の言葉には、なぜか抗いがたい引力のようなものがあった。その言葉が頭のなかで幾度も浮き沈みを繰り返し、心のなかに深く沈んでいってどうにも動かせなくなってから辞表を出した。生きていても死んでいても同じなら、どこにいても変わらないだろう。

 そうして彰人は、老人が勧める土地へやってきたのだった。