第2話 山

 その小屋には電気も水道も通っていなかったが、世話役の男はひととおり生活の仕方を説明した。

「ガスコンロもひとつあります。なくても囲炉裏で燃やす薪に不便はしないでしょうが。ライターやマッチもたくさんありますから火を起こすのは簡単でしょう」

 小屋には倉庫のような一室があり、たくさんの常備品が蓄えられていた。缶詰などの食料や農具、ふとんのようなものが雑多に置いてある。その部屋のほかには玄関に面した十畳ほどの大きな部屋がひとつ。まんなかに囲炉裏があるだけだ。

「祠にお参りにくるひとを泊めるという話でしたが、そのための部屋は?」

「一緒に雑魚寝するんですな」

 男は説明を終えると、一ヵ月後にまた来るといって来た道を引き返していた。

 おいていかれた彰人は途方にくれた。

 なにもないところと聞いてはいたが、これほどとは思っていなかった。埃っぽい屋内にいるのが嫌で外にでると、膝丈ほどの草が生い茂るひらけた原っぱが一キロ四方に広がっている。そのまわりを鬱蒼とした森が囲み、森の向こうには山々の山脈が折り重なっている。

 なにがあっても誰も助けにこない。怪我をしても死んでもわからない。一ヵ月後に彰人がここにいなかったとしても、あの世話役の男は気にもとめないだろう。生きていても死んでいても同じ。まさにそういう場所だった。

 まず彰人がしたことは水を確保することだった。雨水用のタンクがあったが、どれだけ使っていないのかわからない。その水を飲む気にはならず、栓を抜いてすべて空にすると、教えられたとおり森を下ったところにある川に水を汲みに行き、戻ってきてガスコンロで沸騰させた。それからあとは何もする気にもならず、小屋の前に椅子をだしてただ座っていた。不思議と寂しさは感じなかった。

 夜になると小屋の裏に積んであった薪を集めて囲炉裏で火をつけた。寒かったのではなく明かりが欲しかったのだ。火を起こすのに四苦八苦してやっとついたころには辺りは暗くなり、赤々と燃える炎に安心してその日は泥のように眠った。

 その小屋へ来てから彰人は朝早く起きるようになった。ホーホーという野太い鳥の声が目覚ましがわりで、食事や洗濯など最低限しなければならないことは日暮れまでに済ませる。まだ夏の終わりだったが陽が沈むととたんに寒くなる。夜に起きていてもいいことはない。薪の残りも少なかったし、小屋にあったランプのオイルも残りが心配だった。なによりも夜に明かりをつけていると窓に昆虫が体当たりする音が絶えず、朝になると薄気味悪い死骸が窓の外に積もっている。

 自分はここでは異物だと得体のしれないものから責められているようだった。山が意識をもっているように感じ、それをなるべく刺激しないように日の出に起きて日没には寝た。

 はじめのころは夜が怖かった。横になっているとどこでもないところへ落ちていくようで寝つけず、まんじりとした夜を幾日も過ごしたある晩、ふと気になってカーテンを開けた。窓のむこうには驚くほど明るい景色が広がっていた。月明かりに照らされた山は青白く沈み森は昏く燃えるようにゆらめいている。眺めているとそれまで聞こえなかった木々のざわめきや獣の遠吠え、虫の音が染みこんでくるのだった。

 ときたま降る雨の日にそとへ出てからだを洗い、排泄は森のなかでする。文字通りなにもないところだったが、いったんそれを受け入れてしまえば次第に気にならなくなった。誰かに対してなにかを取り繕う必要が一切ないということは、すべての行動の目的と価値を自分で決めるということだ。ある面では自堕落になったし、ある面ではストイックになった。

 食料の大半が缶詰だったことには辟易とした。同じような味に早々に飽きてしまい、果実を求めて森を歩くことをはじめた。迷ったら命取りだと感じていたから奥へは足を踏み入れなかった。まずは小屋の下にある川を下流へ、そして上流へ。食べられそうな大きさの魚を見つけたときは興奮して、小屋から網を持ち出し半日以上かけて捕まえた。そうして徐々に行動範囲を広げていった。迷いそうな場所には枝に紐を結んだり木の幹にナイフで目印をつけた。

 ある日、いつものように川伝いに歩いていると、ふいに背後の茂みが音を立てた。

 振り返ると数メートル先の木立のあいだをなにかが動いている。息をのんで目を凝らすと、木の影から姿を現したのは黄色に黒の縞模様のある大きな虎だった。

 虎は彰人を見ながら二、三歩前へでて動きをとめた。威圧感のある姿にからだが固まって動けなくなる。皮膚の表面から心の奥底までを見定めるかのように視線を流すと虎は興味を失ったように後ろを向いて悠然と茂みの奥へ姿を消した。

 彰人はその場に座りこみ、長いこと動けなかった。

 それから何度となくその虎の姿を目にすることになった。

 小屋に猟銃があるのは知っていたが持ちだそうとは思わなかった。扱う自信もなかったし、それは山への背信行為であるような気がした。それを使ったらきっとこの山は彰人を追いだす。

 虎とは距離を保ち、互いの存在に気づいても近寄らず、美しく輝く毛並みが通りすぎるのを彰人はひっそりと待った。

 一ヵ月後、小屋にやってきた世話役の男は呆れ顔でいった。

「あいやー、そっちに転びましたか。塚原の旦那様のお見立てどおりで」

「そっち、ですか?」

「あなたみたいにな神経質なひとは一ヵ月たったら連れて帰ってくれと泣きつくか、最悪自殺でもしてるんじゃないかと思ってました。ですが、ずいぶん穏やかな顔になりましたな」

「私は神経質でしたか?」

「そりゃあもう、静電気が感じとれるんじゃないかと思うくらいびりびりしとりました」

「そんなつもりはなかったんですが」

 彰人が顎をさすると男は驚いたように目を丸くした。

「怒らないんですか」

「そんなことで怒りませんよ。ここは不思議な場所ですね。これまで学校であれ職場であれ居場所というものを自分から求めたことはなかったのですが、ここにいるとなぜか受け入れてもらいたくなります」

「それは山に、ですか?」

「そうです」

「ほんとにまぁ……。それじゃあ日にちの感覚も薄れているでしょうが、もうひと月たっとります。あなたを連れて帰ることもできますがどうしますか? 次に私が来るのはまたひと月後です」

 彰人は首を横に振った。塚原老人は彰人がいたいだけ居ていいといった。東京での暮らしを捨てて来たのだ。すぐに戻る気はなかった。

「まだここにいます」

「わかりました」

 世話役の男は担いできた荷から食料をとりだした。主に乾麺などの乾き物と缶詰。ひさしぶりにパンを手にして思わずその匂いに喉がなる。

「次に来るときになにか要りようなものは?」

「できたら野菜の種を持ってきてもらえますか。この土地で育ちそうなのがいい」 

「あれま、本腰をいれて住むつもりですか」

「いつまで住むかわかりませんが缶詰にはうんざりなんです」

 そうでしょうな、と男は刻まれた皺を濃くして笑った。