第5話 自分

 存在を証明してくれる者が誰もいなければ自分が生きているのか死んでいるのかわからない。そんな環境で彼女の存在こそが自分を保つ鏡だった。

 そして鏡に映った自分は醜かった。

 どれだけ山奥に住んでも仙人のようにはなれない。霞を食べていけるはずもなく腹が減っては食べて空腹を満たし、眠くなれば寝て眠くなければ起きている。とうぜん性欲も溜まる。ひとの摂理としては自然のことだ。

 とくに雪の日に現れる少女を前にするともう我慢がきかなかった。会えばかならずからだを繋げた。それが自分が属していた社会では罪とされるものだったとしても、これほどまでに満たされる行為が罪でありえるだろうか。

 少女は彰人が求めれば応じてくれた。無言でからだをむさぼる彰人に「なにか話して」というようになり、彰人はそのたびに「あとで」と快楽を優先させた。

 圧倒的な体験だった。これまで誰とも感じたことのない深い繋がりを持てている気がした。この山の化身のような存在と。

 愛しく怠惰な日々が続いたが、そのうちに少女が現れる回数は減っていき、ついには現れなくなった。

 雪が降らなくなったのだ。

 積もっていた雪も薄くなり木々から雪が落ちて茶色い地面が見えるころには、微かな息吹を大地に感じるようになる。山小屋に蓄えられた食料が底を尽きるほんのすこし前に世話役の男が姿を現した。

 数ヶ月ぶりだったが、ずいぶんと懐かしい気がした。

「こりゃあ危ないところでしたなぁ。多めに用意しておいたつもりでしたが、みんな食べちまいましたか」

「食べることしかやることがなかったので」

「それにしてはまったく人恋しそうではないですな」

「そうでもないです」

 そうでもない。

 あの虎の化身の少女のことを思うと喉の奥がひりつくような渇きを感じる。会いたい。山が勢いよく芽吹いていくほど、寂しくて虚しくて仕方がない。

 少女はいっていた。

「虎のすがたの私には近づかないで。虎のわたしは人だったときのことを覚えていない」

 まるで虎の化身であるという嘘を見抜かれないためにいっているようにも思えたが、あまりにも何度もいうので彰人は近づかないと約束した。

 でももし本当に虎が彼女だったら?

 たとえ忘れていたとしても、自分を見れば思い出すのではないか。

 あれだけ深く繋がっていたのだ。心から、身体から、魂から。

 彰人は来る日も来る日も虎の姿を求めて山を歩き続けた。やっと黄金の毛並みを見かけたのは、もう春も終わり、木々の緑も色を濃くして陽差しが強くなりはじめたころだった。

 木立の合間に輝く毛並みを見かけた瞬間、なんの躊躇もなく足を踏み出していた。絶句したのはその虎がずいぶん小さな姿だったからだ。しかもニ匹、互いにじゃれつくように遊んでいる。

 ニ匹の……。

 そのとき低い唸り声がして後ろの藪が音を立てた。振り向いた彰人の前に現れた大きな姿こそが、あの虎だった。ひと目でわかる。見間違うはずがない。

 牙を剥き、目は正気とは思えないほどの獰猛さを宿している。

「僕だ」

 今にも嚙みつかんばかりに牙を剥き虎が頭を低くさげる。

 あまりの迫力に彰人は両手をあげた。

「僕だよ」

 虎が前足で地面を掻く。

 彰人は後ずさった。そのまま後ろへさがって、木の陰にはいったところで全速力で逃げだした。

 その虎の親子を彰人は遠くから見守ることにした。母親となった虎の警戒心は強く、彰人の気配をすこしでも感じると唸り声をあげるため、小屋で見つけた双眼鏡を使って遠くから眺める。そのうちに小屋にあった猟銃を持ちだし、相変わらず飄々とした世話役の男に使い方を教えてもらい狩りをすることを学んだ。

 以前の彰人なら山を傷つけていると考えただろう。

 けれど生きるために命のやりとりをするのは自然の摂理である。そうであればこれも自然な行いだ。

 鹿や猪を撃っては、その死骸を虎の通りそうなところへ置いておく。

 すこしでもあの虎の親子の役に立ちたかった。

 そうして夏が来た。こどもの虎たちはすっかり母親について歩けるようになり、寄り添うようにして三匹は行動していた。

 あっという間に木々の葉が色づき空気が凍えるようになったある日、薄汚れた旅人風の男が小屋を訪ねた。裏にある祠へのお参りに来た者のようで、身振り手振りで小屋に泊まりたいと頼む。冬が来る前に参拝をしたかったのだろう。半ば凍えるように震えていた男を小屋に迎え、温かい山菜の鍋を作って持てなした。

 翌朝、目覚めたときにはその男は姿を消していたが、その日のうちに村へ帰るつもりなのだろうと気にもとめなかった。通りすぎるだけの人間の行動などどうでもよかったのだ。

 自分はずっとここにいる。この山の一部となって、雪の降る季節になればまたあの少女と会い、愛しあい、それを繰り返す。不安も不満も寂しさもなかった。自分という存在はこうあるべきだった。これまでの都会の生活こそが不釣り合いなものだった。もはやあそこに帰るなど考えられない。

 パンっと、山中に響き渡るような鋭い音がして、小川のそばで洗い物をしていた彰人は手を止めた。

 すこし間をおき、ふたたび音が炸裂し山々にこだまする。

 猟銃の音だ。

 弾かれたように彰人は駈けだした。どこで発せられた音なのか山全体に響いたあとではわからない。けれどこの時間に虎の親子のいそうな場所ならわかる。

 川沿いに上流へと駈けあがる。日が暮れるすこしまえに水を飲みにくるころだ。

 はたしてその川原に虎の姿はなかった。

 かわりに昨夜小屋に泊まった男が倒れていた。

 首がはんぶん千切れていて大量の血だまりができている。そばには小屋にあった猟銃。こんなものをわざわざ盗んでいったとは思えない。ずいぶんな年代物だ。懸賞金、と世話役の男がいっていた言葉が浮かんだ。

 ぽつりぽつりと血痕が木立のなかへ続いていて、彰人は慎重にその跡を辿った。すこし行ったところで斜面が急になり、崖のようになっているところへでた。あの少女と初めて出会った場所、怪我をした虎の姿を追って、裸の少女を見つけた場所だ。

 穴の奥へと血痕は続いている。

 そっとなかを覗きこんだ瞬間、ものすごい勢いで黒い影が飛びだしてきて、はね飛ばされた。腹に灼熱の衝撃を受けて、彰人は仰向けに倒れた。噛まれたのだ。

 パン、と銃声が弾けた。

 大きな虎の巨体がどっと倒れる。

「無事ですかい!」

 世話役の男の声がした。視界の隅に駆け寄ってくる姿が見える。

 そばに横たわった虎の瞳が急速に光りを失っていく。ふくよかな毛並みに覆われた胸が忙しなく上下していて血が流れ出している。

 彰人は仰向けになったまま這った。背中と腕をなんとか動かす。腹からしたは恐ろしいほど重くて熱い。

 ほんのすこしでも近づいただろうか、手を伸ばして指で土を掻く。虎の鼻先がひくりと動き、光りを失いかけていた瞳が動いて彰人を捉えた。

「近づかないようにいわれていたのに、ごめん」

 のそりと虎が躯を起こした。震える前脚を突っ張って一歩、二歩と進み、力尽きたように倒れ込む。虎の鼻先が彰人の手にふれた。

「死なせてしまって、殺させてしまって」

 小さな舌が手についた血を舐める。

 黄金の毛が赤く染まっていく。

 どうしてこんなにきれいな生きものが死ななければならないのだろう。

 あの行為が罪だったのなら自分だけが背負えばいい。

 滲んだ視界の隅を白いものがちらついた。目をあげれば灰色の空から塵のような雪がゆっくりと落ちてくる。

 いっせいに世界を染めあげる力。

 やっと山とひとつになれるのかもしれない。けれど彼女を巻き込んでしまったことだけが、とてつもなく悲しい。

 世話役の男が彰人のそばに膝をついた。どうしていいかわからないというように、手をあげたり下げたりしている。はじめてこの男の慌てたところを見たと思った。

「おねがいがあります」

 音になるかならないかの掠れた声で彰人はいった。

「ちかくに、こどもの虎がいます。どうかほうっておいてください」

「しかし」

「おねがいです。塚原さんにもそう伝えてください。それから僕は」

 なにかとひとつになりたかった。孤独を感じたくなかった。

 自然に生きたかった。

 喜ぶちからも悲しむちからもあった。感情を持っていた。

 情欲もあった。愛することもできた。

「ここに来て不幸せではなくなりました」

 空から舞いおちる粉雪が幻想なのか現実なのか区別はつかなかった。視界は昏く、けれど降りしきる白い雪。

 埋もれていく喜び。

 なくなる哀しみ。

 手を伸ばして、動かなくなった虎の毛をそっとなでる。

 もう生きることはできないけれど虚しくはない。

 あの二匹の小さな命は続いていくだろうか。そうだといい。けれどたとえどこかで途絶えてしまっても、命はなにかしらの影響を残し、混ざり、染みこんでいくだろう。